闘魂!アララガマ

宮古毎日新聞労働組合の活動を紹介します。

組合ニュース106号

息の長い、着実な支援必要
戸田副委員長の被災地復興支援ツアー報告

 河北新報労働組合主催の「被災地復興支援ツアー」が9月13、14の2日間行われた。宮古毎日新聞労働組合からは戸田佳憲副委員長が参加し、宮城県南三陸町と石巻市で被災地の復興状況などについて視察した。

 初日は南三陸町を視察。「被災体験語り部ガイド」を務める阿部長記さんの案内で校舎が波にのまれた戸倉小学校と中学校へ。同小学校は志津川湾の近くに位置し、3階建て校舎は一時、完全に水没したが、地震直後に児童全員が高台に避難していて無事だった。高台にある中学校も校舎1階は水につかり、設置されている時計は地震発生2分後の午後2時48分で止まっている。阿部さんは「21~22メートルの高さまで津波が遡上したものと見込まれる」と説明した。その後、被害の爪痕がいまだ残っている港や、地震発生時に客を帰さず、屋上へ避難させたことで命を守った総合結婚式場「吉野会館」、住民に防災無線で避難を呼びかけ続けた女性職員ら42人の職員が死亡または行方不明となった町防災対策庁舎などを視察。骨組みしか残らなかった防災対策庁舎について、阿部さんは「戦後これまでに8回の津波を経験しているが、いちばん高かったのが1960年に発生したチリ地震の際の5・5メートル。その高さを想定して対策がされていた」と想定を超える津波だったとの考えを示した。

 この日は佐藤仁南三陸町長から話を聞くこともできた。佐藤町長は町民の3・4%に当たる604人が死亡、223人が行方不明となっていること、第一報では津波の高さ予想が6メートルと実際より低く発表されたことが被害を大きくしたとする見方を示した。仮設住宅は58団地を整備し2195世帯、5678人が入居。1040世帯が町外へ避難している状況を説明し、「避難住民が町へ戻ってこないのではという危機感を持っている」と心境を明かした。そのほかの課題としてはマンパワー不足、仮設暮らしの長期化、鉄道の復旧を挙げた。「既存の制度が復興の障壁になっている」と話す佐藤町長は、制度の弾力的運用や新制度の創設が不可欠と指摘し、「10年計画。7・5年後には輝きを取り戻したい」と語った。

 質疑応答の中で佐藤町長は、復興遅れの要因について「当時の民主党政権の初動の遅さ」とした上で「制度に復興を合わせるのではなく、復興に制度を合わせないといけない」と主張。被災地以外の人に求める支援としては「いちばん良いのは来て見てもらい、買い物をしてお金を落としてもらうこと。軽い気持ちで来てもらっていい」との思いを述べた。

 同日夜は、震災直後に多くの避難住民を受け入れ、町の復興を願い断水が続く震災後43日でレストランの営業を再開させた「ホテル観洋」に宿泊。おかみの阿部憲子さんから当時の苦労話などを聞いた。

 2日目は石巻市を視察。最初は、全校児童の7割に当たる74人が死亡・行方不明、当時学校にいた児童のうち4人しか助からなかった大川小学校へ。学校の対応の遅さと、避難先を学校の裏にある山ではなく、川に近い堤防道路を選択したことが被害を大きくしたとの指摘もある。校舎のすぐ裏に山がある現場を目の当たりにすると、山への避難を選択できなかった当時の判断が、今さらながら悔やまれる。
続いては住宅街を襲った津波と、その後発生した火災で約3800人が犠牲になった門脇町を視察。三陸河北労働組合の今野勝彦さんの案内で、当時住民が避難したのと同じルートで元住宅街で今は更地となっているエリア奥にある小高い日和山公園まで歩いた。今野さんは、しばらくはがれきが山積みとなっていたが、1年ほど前にほとんどの処理が終了したこと、山際の一部の地域はかさ上げをして宅地とするが、それ以外の低地は人が暮らすには危険との判断から公園として整備する計画になっていることなどを紹介した。

 昼からは、河北新報の記者で、震災当時に気仙沼を担当していた丹野綾子さんから当時の状況を聞いた。丹野さんは、大津波が気仙沼を襲った翌日、街を見に行くと、見慣れた風景が一変していたと振り返る。車を走らせていると、突然、知らない男の人に止められ、毛布にくるんだ何かを抱えて車に乗り込んできて、避難所まで行くように言われたという。毛布にくるまれていたのは男児で、避難所で医師に診てもらったが、死亡が確認されたという。その時、「私は取材をしていて良いのか。カメラを向けて良いのか。救助の手伝いをすべきなのではないかと思った」という。しかし、避難所で新聞を配ると、全国紙よりも地元紙を奪い合うようにして取っていき、地元が今、どうなっているのか確認したり、掲載されている写真で知人の無事を知り喜んだりする姿などを目にして、「こんなにも新聞が必要とされたのは初めてだった。振り返ると100点満点の新聞を作れていた訳ではないが、災害時の地方紙の役割の大きさを感じた」と語った。「これまで感じたことはなかったが、やりがいが大きいと感じた。震災はいつどこで起こるか分からない。いつ、皆さんが河北のようになるかもしれない。新聞の役割が大きいことを分かっていてほしい」と訴えた。

 今回のツアーで訪れた南三陸町と石巻市。がれきの処理がほぼ終わり、仮設住宅や役所の仮庁舎も完成していたが、震災から2年半が経過した現在でも、本格的な復興工事には着手できていないのが現状だ。多くの人が被災地のことを忘れることなく、復興の状況を常に確認しながら、息の長い、着実な支援を行っていく必要性を痛感する結果となった。

 ツアーの終わりに河北新報労働組合の渡辺晋輔執行委員長は「今回、初めてツアーを企画することができた。今後も訪問先を変えるなどして継続していきたいと考えている。ぜひ次回も参加してほしい」と呼び掛けた。

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